4,大人しい長女と大人な経験をしてしまった。(2)

 勿論、両親は静江を嫌っている訳ではない。そう言って駄々をこねてみたら、いくらでも構ってくれるのだろう。
 だがそれを言ってしまえば……良き姉ではなくなってしまう。
 強い責任感のせいで、弱いところをどうやって見せたらいいのかわからなくなってしまった静江は、そのままずっと――いい子を演じていた。

 そのまま二年が経ち、静江が六歳になったころ。彼女にもう一人、守る対象が増えた。
 とても小さな男の子、初めての男子に上機嫌な父親は、龍之助という名前をつけた。強く立派になって欲しいという理由だ。
 その理由を聞いてしまった時、すっかり黒くなった静江の心に、重い――とても重いおもしがのしかかってきた気持ちになった。

 愛に餓えていた静江は、そのころにはすっかりやさぐれていた。
 外面ではいい娘を演じながら、内面では愛されていないのだと自暴自棄になっていた。
 不安定な状態がずっと続き、龍之助が生まれたころには、責任感は『いい娘でいないと嫌われる』という責務に変わっていた。

 そんな折に、父親の言葉を聞いてしまったのだ。

(もっと頑張らないと)

 新しい家族に笑顔を作りながら、静江はより強く自分を律することにした。

 だが、耐えるなんてことはいつまでも出来る訳も無く、限界の時は唐突にきた。
 龍之助が小学生に上がるころ、入れ違いになる形で静江は卒業式を迎えた。春から始まる中学生活に、曇っていた静江の心も少しだけ輝いていた。
ハンガーに掛かった、少し大きめの制服を見ながら静江は思う。

(これを着て、中学校に通ったら、両親はなんて言ってくれるだろうか)

 小学生だった静江から見た中学生は、とても大人びて見えていた。
 だから中学に上がった彼女は、両親に認められて、褒められるのではないかと期待感を抱いていたのだ。
 入学の日が待ち遠しい……静江はワクワクとした気持ちでその日を待ち続けた。
 そのお陰か、龍之助の入学式には作り物ではない、本物の笑顔で祝うことが出来た。記念に撮った写真は、写っているみんなが、満面の笑みで新生活を祝福していた。

 そして、続く静江の入学式――両親はどちらも来なかった。
 入学を控えた数日のあいだ、天気が悪い日が続いたこともあり、身体が弱かった龍之助は入学のストレスも重なり体調を崩してしまったのだ。
 学校に向かう時、静江に優菜は言った。

『ごめんね……でも、静江ちゃんなら大丈夫よね?』

 その一言で、まるで感情が殺されてしまったような、そんな気分になった。

『大丈夫』

 笑顔を作り、母に言う。一体自分が何をしたのだろうか、何を間違ってこんなことになってしまったのだろうか。
 何もわからなくなったまま、淡々と入学式をこなして家に帰ってきた。

『ただいま』

 帰宅の挨拶をして家に入るが、返事はない。
 リビングに入ると、テーブルには書置きがあった。
 そこには母の文字で龍之助を病院に連れていくという旨が書かれていた。時計に目をやるとまだ正午といったところだ、家の中には誰もいない。
 どうやら自分は、家に一人でいても問題ないと思われているようだ。
 静江はそう思うと、無性に悲しくなり、気が付けば涙が溢れ出ていた。

 それから一人でご飯を作り、龍之助を連れて優菜が帰ってくるまでのあいだ、明日の準備をしていた。
 そうこうしていると家に帰ってきた優菜が静江の部屋にやってきた。
 今日のことを謝られながら、亜花梨と龍之助の二人だと心配だから、通学を付き合ってくれとお願いされた。

 もう、何も感じない。褒められなくても気にならなかった。
 笑顔を作り、『わかった』と返事を返す。すると、優菜の足元からひょっこりと龍之助が顔を出した。
 瞬間、殺意にも似た黒い感情を覚えたが、すぐに笑顔で気持ちを隠す。
 そんな静江を見て、熱を帯びた龍之助は、しゃがれた声で言った。

『しずえお姉ちゃん……にゅうがくおめでとう』

 苦しそうに本物の笑顔を作りながら……龍之助は静江が求めてやまなかった些細な一言を、いとも簡単に渡してくれた。
 静江はまるで、ダムが決壊したように嗚咽を上げて泣きだした。
 何が起こったのかわからないまま、優菜が心配して抱きしめてくれる。その暖かさに、より激しく涙が溢れ出す。

 ――龍之助の一言のお陰で、弱い所を見せてしまった私は気が楽になり、なんとかやっていけている。
 その時の後遺症か、人が怖くなり、ひきこもりがちになっている状態でも家族は全員優しく接してくれていた。
 それもこれも、きっかけは龍之助が祝ってくれたからだ。あの日以降、恩人ともいえる弟のことを静江は一人の男性として、強く想っていた。

 だからこそ、母親が羨ましい。
 あんなに気持ちの良さそうな顔で、龍之助から寵愛を受けているなんて。
 一心に息子の性愛を受ける優菜の姿を見て、姉弟だからと胸に封をしていた想いが、煙を燻らせるように徐々に溢れてくる。

「あ――そっか。そういやあの時、姉貴いなかったんだ」

 二人の情事に夢中になっていると、亜花梨が何かを思い出したかのように手を叩いた。

「いなかったって……何処に?」
「えっとね、今のタツは変な病気にかかってて――」

 亜花梨に龍之助の状態を説明されて、静江は驚きのあまりに両手で口を隠し、目を見開いた。
 その様子を見て亜花梨は納得したように何度か頷いてから説明を続けた。

 妹は大方、奇病に対して驚きを見せたのだと誤解したんだろうが、実際はそうではない――。
 静江は話を聞きながら、両の手で隠した口元を緩ませていた。

 陽射しが温かく感じる昼下がり。龍之助は窓から差し込む陽光を受けながらベッドで昼寝を嗜んでいた。
 ここ最近は毎日のように家族と愉しんでいることもあり、少しでも暇な時間が見つかれば体力を養うために身体を休めていた。

「一体いつになったら元の身体に戻るのやら……」

 こういう生活になってから、そろそろ一か月近くになる。一過性のものだと聞いていたが、どのぐらいやり過ごせばいいのか、明確な時間がわからない身としては胸にモヤモヤとした不安が残ったままだ。
 このまま元に戻らなかったらどうすればいいのか、家族は熱心に相手をしてくれているけど、この生活はずっと続くものではない。みんなにはそれぞれの人生があるのだ。
 姉にはその内恋人が出来て、新しい家族を作る時が来るだろう。母親だって仕事がある、都合よく毎回相手をしてくれる訳ではない。
 だが、龍之助の状態が長く続いてしまうなら、いつか家族は壊れてしまう。

 ――家族を大事にすること。

 龍之助の胸中に、父の言葉が重くのしかかる。
 自分がこんな状況になって、初めて人を大事にするということの難しさに気が付いた。

「んんんん~~~~む」

 龍之助は不安を振り払うようにベッドの上で転がった。
 考えれば考えるほど、不安は焦燥感に変わってしまう。龍之助は深く考えてしまう前に休もうと目を閉じた。
 それと同時に、扉をノックする音が部屋に響く。

(あれ……? 今は亜花梨姉ちゃんも母さんもいないはずだけど……)

「たっ君……あの……いるかな…………?」
「その呼び方――静江姉ちゃん?」
「……うん」

 凛としたよく通る声を絞りながら、静江は返事をした。
 予想外の来客に、龍之助は慌てて飛び起き、扉を開ける。
 そこには真っ黒い髪を腰まで伸ばした静江が、おずおずとした様子で立っていた。

 ぶかぶかのパーカーを着込んだ彼女は袖で手が隠れていて、とても可愛らしい印象を受ける。
 パーカーから伸びた肉付きのいい脚は黒いタイツを履いていて、太腿で伸びた生地部分がうっすらと肌の色を覗かせていた。
 俯きがちなせいで上目遣いになりながら、静江は龍之助の方を見ていた。

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