「どうした桜? 部屋の前にいるなんてなんか用事か?」
「ううん、別に用事があるわけじゃないんだけど。良かったら部屋に入れてくれないかな?」
「部屋に?……別にいいけど」
「本当っ、やった」
桜の提案に気軽に返事をすると、彼女は嬉しそうに圭吾に近づいた。後ろについた彼女を尻目に、圭吾は家の鍵を開けると圭吾に続いて桜が部屋に入る。
「おー、綺麗にしてるんですね。独身男の一人部屋ってもっと乱雑で汚いものだと思ってました」
「何だその偏見。独身男の部屋に入ったことあるのか?」
「いいえ、漫画の知識ですけど」
「漫画かよ、てっきり彼氏でもいるのかと思ったぞ。といっても桜くらいの娘にはまだ早いか」
「……黒崎さんわたしのこと小学生か中学生あたりに捉えてませんか?」
「違うのか?」
「違いますっ!……確かによく間違えられるけど、これでも高校生なんですからね」
「ははは、そうかそうか」
「信じてませんね……まぁいいですけど」
鞄を机に置きながら他愛の無い会話を続けた。会話の調子は普段の桜だったが、やはりどうにも違和感を感じる。
「それで、急に部屋に来たいだなんてどうしたんだ? 何か嫌なことでもあったのか?」
「ん……そういう訳ではないんですけど。どちらかというといつも通りすぎて遊びに来たいなって思っちゃったんです」
桜の思わせぶりな口ぶりに圭吾は首を傾げる。どういう意味かと追求しようとしたが、彼女の様子がおかしいのもあって圭吾は押し黙ると、桜は話を続ける。
「黒崎さんはわたしのお母さんのこと知ってますか?」
「はぁ? そりゃ勿論知っているよ」
「どのくらい?」
「どのくらいって……」
桜に言われて圭吾は改めて思い返した、そうすると不思議なほどに桜の母親のことが出て来なかったのだ。数回面識はあるのだが、見た目や物腰が薄ぼんやりとしか出て来ず、圭吾は返答に困ってしまった。
圭吾の表情を見て察した桜は笑顔を作る。しかし今見せている笑顔は悲壮感を感じさせる、切ないものだった。
「出て来ませんよね、別に大丈夫ですよ。肉親であるわたしですら、お母さんのことあんまり知りませんから」
「……仲が悪いのか?」
圭吾の質問に桜は「とんでもない」とかぶりを振って答える。
「寧ろわたしはお母さんのことが大好きです。わたしが物心つく前から父親に逃げられて一人でわたしの面倒を見ることになって……それでも嫌な顔せずに一生懸命働いてここまで育ててくれて。わたしはお母さんを尊敬しています」
「じゃあどうして……」
その言葉が事実なら彼女と母親はとても深い絆で結ばれているはずだ。それなのに母親のことをあまり知らないなんて、どういうことなのかと思った。
「わたしの為に一生懸命になってくれるのはとても嬉しいんですけど、お母さんはいつも働き詰めで家に帰るのは日にちを跨いでからが殆ど、たまの休日だって生活用品の買い足しと睡眠で殆どが終わってしまいます。その状態でお母さんのことを深く知るなんて不可能ですよ」
笑みを浮かべながら彼女は語る。笑顔に被さる悲壮感は話すほどに重くなり、もう笑っているのか泣きそうになっているのかわからないほどだった。
「最近は食も細くて、綺麗だった髪も痛んでしまっていて。それでもわたしの為に働いているんだから身体を休めて欲しいなんて言えないんですよね。それを言ってしまうとお母さんの頑張りを否定していることになってしまうから。でもわたしは……もっとお母さんと一緒にいたいのに」
消え去りそうな語尾の後、彼女は喘ぐように息を漏らした。そして瞳からはうっすらと涙が流れ落ちていた。
「桜……」
桜の話を聞いて、圭吾は悟った。桜はただただ寂しいのだ。
確かに生きる為には金が必要だ、娘がいるなら尚の事。ただ育てるだけではなく、これからのことを考えて蓄えだって作らなければならない。そう考えると母親にかかる苦労はとんでもないものだろう。だが、それは桜にとっても同じことだ。母親が仕事に忙殺されてしまえば、彼女は一人で過ごさなければいけなくなる。多感な時期である桜にとって、手近にコミュニケーションを取れる相手がおらず、ずっと一人で過ごす心労もまた大変なものだろう。
(だとすれば、俺が妙に懐かれた理由も納得できるな)
圭吾の存在は桜にとって救いに近いものだったのだろう。見知らぬ土地で一人寂しく過ごしている彼女と唯一自由に会話ができる存在である自分は、彼女にとって肉親に近いくらい特別な存在なのだろう。だからこそ、孤独を感じた彼女は圭吾に|縋《すが》った。
「――すいません。空気悪くなっちゃいましたね。変な話をしてごめんなさい」
最初に出会った時と同じように涙を拭った桜は再び笑顔を作る。子供離れした彼女の処世術が見ていて痛々しくて、
「ふえっ⁉」
圭吾は桜に近づき、強く抱きしめた。
「く、黒崎さんっ? どうしたんですか、転んだんですかっ」
「んな訳ないだろ」
「それじゃあなんで……わたしの話で同情でもしたんですか」
いつもと違う、突き放すような冷たい口調。しかしそんなことは気にせず圭吾は抱きしめ続ける。
「……そうかもな」
「……だったら黒崎さんはチョロいですね、チョロチョロです。わたしの話が嘘だったらどうするんですか」
「どうもしないさ、例え嘘だとしても騙されてやる」
「……なんでそんなに優しくするんですか?」
「ただの自己満足だよ。でもそれで、可愛い隣人の寂しさが紛らわされるかも知れないなら言うことないだろ」
抱きしめる彼女の体温がどんどん熱くなっていき、しまいには鼻をすすって泣き始めてしまった。
「……なんでぇ? なんでそんなに優しいんですかぁ……?」
「だから自己満足だって言っただろ。寂しそうにしている桜が可哀想で、慰めたいと思ったんだ。お前は俺の中でそれだけ大事な存在になってるんだよ」
抱きしめる力をより一層強くする。彼女が一人にならないように、何があっても離さないように。
「俺のことが嫌だったら拒否すればいい、嫌なら嫌だとはっきり言え。そのままでいるなら、俺は勘違いしてしまうぞ」
「あんな話をしたあとにこんな風に優しくされて……振りほどけるわけないじゃないですかぁ……っ」
桜は応えるように圭吾の腰に腕を回し、同じ様に強く抱きしめる。
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