休日。自分が住んでいるマンションの一室で惰眠を貪っていたら呼び鈴が鳴り、|黒崎圭吾《くろさきけいご》は目を覚ました。
休みといっても世間様から見たら本日は平日だ。フリーターである圭吾は休みであるが、大多数の人間は職場に赴き勤労に勤しんでいるはずだった。
(この時間に部屋を訪ねてくるってことはセールスか何かかな)
時間を見てみると正午を少し回ったところだった。宅配も人が訪ねてくる用事もなかったし、そのまま居留守してもうひと眠りしようかと布団をかぶり直す。しかし、呼び鈴はしつこく何度も鳴り響いた。
(なんだなんだ一体)
五回、六回、と連続で鳴る呼び鈴に圭吾は訝しい表情を作る。いくらなんでもしつこすぎないか? そう思って扉を見ていると七度目の呼び出しが鳴った。
「……はーい」
流石に面倒になってきた圭吾は居留守をやめて返事をする。どうせ大した客ではないだろう、そう思って布団から出て寝間着のまま扉に向かった。
「はい、どちら様ですか?」
扉を開けると眼前には誰もいない。まさかいたずらか? それにしてはしつこかったが。訳もわからないまま固まっていると「あの……」と尋ねるような声が眼下から聞こえる。
下を向くとそこには小さな少女が顔を上げてこちらを見ていた。腰まである長い髪の毛をサイドテールにして一つにまとめた少女。髪の毛の長さも相まって身長の小ささが特に際立ち、どうみても小学生のような出で立ちだった。こんな小さな子供とは面識がない。圭吾は記憶を辿って彼女との接点を探る。
「あ、あの……っ!」
ジッと彼女を見つめていると、自分の呼び声が聞こえてないと思ったのだろうか。再び少女は語気を強めて圭吾に話しかけて来た。
「あ……ごめんごめん。どうしたのお嬢ちゃん」
「あの、先週から隣に越してきた|藤木戸桜《ふじきどさくら》と言います。引っ越してきた時に挨拶に伺ったのですが、ご在宅じゃなかったようで、改めて挨拶に伺いました」
とても少女とは思えない流暢な口ぶりで自己紹介を終えた桜は深々と頭を下げた。
「これはどうも……ご丁寧に……」
外見とのギャップが酷くて圭吾は思わずたじろいでしまう。
しかし、今日は平日だ。改めて挨拶に来たと少女は言っていたが、それなら休日、もしくは祝日に来るのが自然なものだ。不思議に思った圭吾は少女に尋ねる。
「でも、どうして今日俺がいるってわかったの?」
「え? いえ、わかりませんでしたよ」
少女のきょとんとした表情に圭吾は思わず「は?」と声を出してしまった。その様子を見て少女は言った。
「先週、こちらに越してきた時から毎日家に伺わせてもらってました。今日もいないのかなと思ったら貴方が出て来たので、やっと挨拶が出来たという感じです」
「ずっと⁉ 先週って言ってたけど今日は金曜日だよ。それじゃ少なくとも五日は通い詰めてたってこと?」
驚いている圭吾の質問に桜は頷く。
「挨拶はとても大事なことだと母から教わっているので。もしかしてご迷惑でしたか?」
「いや……俺としては尋ねてきてたことすら知らなかったから迷惑とかはないけど……」
あまりの律儀さに圭吾は絶句に近い状態だった。今時ここまでちゃんとした小学生がいたとは。もしかしたら俺よりもちゃんとしてるんじゃないか?
そう思って桜を見ると小脇に抱えた箱に気付いた。箱は長方形で三十センチ前後の大きさだったが、彼女が抱えていると一回り大きく見える。圭吾の視線に気付いたのか、桜は箱を圭吾に向かって差し出した。
「これ、母が渡しておいてって、中身は|蕎麦《そば》らしいです」
「あぁ、引っ越し蕎麦か……ありがとうね」
「引っ越し蕎麦?」
圭吾の言葉に桜は頭を傾げる。
「あぁ、最近聞かなくなったもんな。引っ越しした際は蕎麦を配る風習があったんだよ。|お傍《・・・》に越してきましたって感じで。ははは」
「えっ……」
圭吾的に渾身のギャグだったのだが、桜は怪訝な表情を浮かべて息を漏らした。しまった、子供にはこの面白さが伝わらなかったか……。
「いや、お傍とお蕎麦がかかっていてね……昔からある駄洒落なんだけど……」
明らかに冷えた空気に耐えかねて、圭吾は自身のギャグについて説明を始める。しかしこういう説明は得てして場の空気を更に凍らせてしまうものだ。証拠として桜の身体は小刻みに震えて本当に凍えているように身を縮こまらせていた。
「……ぷっ、くくく……っ、あははっ!」
かと思いきや、桜は堰を切ったように笑い始めた。なんとか笑みを抑えようと努力しているように表情筋を固めていたが、こちらからしたらそれが却って面白いことになっていた。
「ふくく……っ、蕎麦と傍って……昔の人ってくだらないことを考えてたんですね」
暫く笑っていた桜はようやく落ち着いたのか、目に浮かんだ涙を拭いながらそう言った。それから、子供らしい笑みを浮かべて圭吾の顔を真っすぐ見た。
「隣に住んでいる人が怖い人じゃなくて良かったです。これからよろしくお願いしますね」
「あ、あぁ……こちらこそよろしく」
圭吾が答えると桜は上機嫌の様子で自分の部屋へと帰っていった。扉を閉めて桜がいなくなるまでその様子を圭吾は見届ける。その日から桜との交流が始まった。
どうやらギャグのおかげか、相当彼女に好かれたらしく、廊下で彼女を見かけるたび、あちらから笑顔を向けてきて挨拶をしてくれた。そんな日が続いていくと、堅苦しかった敬語はどんどんと少女らしいものに変わっていき、気が付けば気さくな物言いをする見た目相応の話し方になっていた。
そうしている内に圭吾の警戒心も薄れていき、時間が過ぎた今では桜のことをずっと昔から面倒を見ていた知己のように感じるようになっていた。それから数日後。仕事終わりに家へ帰ると桜は圭吾の部屋の前にいた。
「あ、黒崎さんこんばんは」
圭吾に気付いた桜はいつもと同じ様に笑顔を作り、サイドテールを揺らして挨拶をする。
袖口にフリルをあしらった白の半袖ブラウスにくるぶしまでの黒のワイドパンツを着込んだ彼女を見て、学校から帰って来て暫く経っているのだろうと思った。しかしそれにしては手荷物がない。と、いうことは帰って着替えてからそのまま俺を待っていたのかも知れない。
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