室内に響くのは金属音だった。
腕を伸ばしてみると手が見えないほどの漆黒、そんな闇の中でガキン、ガキンッと硬い物体がぶつかり合う音が聞こえていた。
音に合わせて暗闇に瞬間的に火花が光る。刹那に煌めくその灯りのおかげで常人はようやく音の位置が把握できる。
ぶつかり合うのは超硬質の爪と銀の剣、それを振るうは獲物と狩人。
目まぐるしく繰り出される剣戟を目で追っている、身長が2メートルに届きそうなとてつもなく屈強な男。ヒューゲルがあくびをしながら音に向かって言った。
「おい、手伝おうか?」
「|五月蠅《うるさ》い。すぐに終わるからそこで見てて」
剣戟の音に消し去られてしまいそうな小さな少女。アンリエッタの声が、抑揚のない調子でそう言った。
アンリエッタはヒューゲルの弟子だった。人間に溶け込み、巧みに騙し、そして捕食する。誰にも気づかれることのない『吸血鬼』を狩る存在の。
ほんの一瞬、目線をヒューゲルに映したアンリエッタの隙を逃すまいと、対峙している吸血鬼は距離を開ける。背後に飛び退きながら吸血鬼は中空で霧のように姿を消してしまった。
「あっ……」
「あー……ったく、隠れられやがって。面倒になったぞ」
「今のは師匠が気を散らしたのが問題。話しかけてこなかったらそのまま仕留めることができた」
「いーや、気を散らしたお前に問題があるね。『敵と対峙している際は何時いかなる時も相手から目を離すな』そう教えたはずだがな」
ヒューゲルの言葉にアンリエッタは痛いところを突かれたといった様子で黙り込んでしまった。
だが、これは大事なことだ。標的の命を刈り取るということは、同時に相手も生きるためにこちらの命を絶ちにくる。ほんの些細な一瞬の隙がすべての命運を決めてしまうのだ。
暗闇の中、アンリエッタは消えた相手を探す。傍から見れば気配はおろか、物音ひとつ聞こえはしない。その場所に何者かがいるなんて、想像もつかないほどの静けさが室内を包む。
だが、出入口はヒューゲルが立っている。そして窓は締め切られ、ニンニクを混ぜ込んだ聖水が振りかけられていた。吸血鬼にとって最も浴びたくない液体の一つ。故に窓から逃げ出すことはありえない。
無論、ヒューゲルがいる出入口から抜け出たということもあり得ない。吸血鬼は長寿であり、必然人並み以上に知性がある。弟子である少女にすら互角に剣戟を交える程度の相手だ。知性ある存在がその技術を教えた相手に向かって襲い掛かるなんて愚かな真似はするはずがない。
「さて、どうする? なんとかしないとこのまま睨み合いだぞ」
「……」
ヒューゲルの言葉を無視するように少女は部屋全体に気を張っていた。両刃の剣を横に構え、いつ飛び掛かって来ても一薙ぎに出来るように構えている。
しかし、吸血鬼は姿を現さない。ヒューゲルの言う通り、事態は膠着してしまっていた。
「……師匠、確認だけど奴が逃げたってことはないよね」
「さてね、この狩りはお前が一人前になったかどうかを知るための狩りだ。全部自分で考えな」
「……そう、ありがとう」
「あ?」
アンリエッタの言葉にヒューゲルが不思議に思うと、突然アンリエッタは目一杯の力で床を踏み抜いた。
ドンッ‼ とけたたましい音が鳴り、部屋全体が微かに震えて埃が舞う。
「……見つけた」
アンリエッタがそう言うや否や、身体を回し、遠心力を乗せた状態で構えた剣を天井に向かって放り投げた。
「グギャアアッ‼」
アンリエッタの読み通り、そこには吸血鬼が潜んでいた。勢いよく飛来する剣を払い落とした吸血鬼はそのままアンリエッタに向かって飛び掛かる。
今彼女は武器を手放し、手には何も持ってはいない。それをチャンスと見て飛び掛かってきたのだろう。だが、それもまたアンリエッタの読み通りの行動だった。
剣を放り投げた彼女はそのままクルリと身体を一回転させて吸血鬼に向き直る。その時点で腕は上着の中に忍ばせていて、何度も訓練したような、とても慣れた手つきでその腕を引き抜くと手には黒鉄の拳銃が握られていた。
ドン! ドンドンドン!
拳銃を抜き取り、凄まじい速さで吸血鬼に向かって発砲する。
アンリエッタに向かって飛び込んでいた吸血鬼は回避行動を取ることが出来ずに飛んでくる弾丸すべてを顔に被弾した。
「アアアアアアアア‼」
床に落下した吸血鬼は金切り声をあげて悶え、苦しむ。被弾した箇所からは蒸発音とともに煙が上がっていた。
「吸血鬼退治のために作られた純銀の弾頭。それに正教徒の聖典を練り込んだ特注品よ。人体に対してはただの銃弾だけど……貴方には格別な味わいでしょう?」
アンリエッタは地面を這い回る吸血鬼の身体を踏みつける。そして頭部に向けて銃口を構えた。
「それじゃあね、神のご加護があらんことを――」
祝福の言葉を言い終えた直後、アンリエッタが握った拳銃が火を噴く。頭部に対して幾度か撃ち込まれたあと、吸血鬼は息が切れたように静止した。
その様子を確認した彼女は踏みつけていた脚を退かし、未だ硝煙が燻る拳銃を上着の中にしまい込んだ。
「師匠のおかげで楽に対処できた。ありがとう」
「さっきもありがとうって言ってたな、どういう事だ?」
「簡単な話、この狩りがわたしの資質を確かめるものなら吸血鬼が逃げた時点で狩りは終了、わたしは師匠に落第点を押されて撤収するはず。でも聞いてみたら師匠は帰る気配を見せなかった。つまりまだ狩りは終わってなくて、吸血鬼は必ずこの部屋にいる。そしてわたしの隙を伺っているのだと予測できた。それさえわかれば適当に埃を舞わせて敵影を確認すればいいだけ」
「なら俺の言質など取らずに最初からそうすればよかっただろう。埃を舞わせて違和感を見つけたならそれでよし、見つけられないなら逃げられたってことになるだろう?」
「そこまで自分のことを信用できない。存在が確定できない以上。一番怖いのはわたし自身が見過ごして隙を晒してしまうこと。そうなるとわたしには対処する方法がない」
「俺の言動なら信用できる……と?」
アンリエッタは大きく頷いてから、「だって、わたしの師匠だもの」と自信満々で言った。
弟子にここまで信用されると、師匠としては流石に気分がいい。娘に好かれる父親というのもこういう感じなのだろうか。
「それで、どうかな。これでわたしも一人前だと認めてくれる?」
吸血鬼と対決していた時とは比較にならないくらい明るい、少女らしい朗らかな笑顔を覗かせながらヒューゲルの元に歩を寄せる。それは同時に、吸血鬼に背を向けることに繋がる。
「そうだな……途中までは良かったが、最後の最後で失敗したな」
「え……」
ヒューゲルの言葉に少女はまさかと振り返ると、さっきまで身じろぎ一つしなかった吸血鬼が起き上がり、アンリエッタに襲い掛からんとしていた。
彼女は咄嗟に拳銃に手を伸ばすが、吸血鬼の腕は既に振り下ろされている。どう考えても反撃は間に合わない。
「……ッ!」
剣と打ち合える硬度を持った爪がアンリエッタに迫る。とても交わしきれない斬撃に、彼女は切り裂かれる自分を想像して目を強く閉じた。
しかし、攻撃は一向にやってこなかった。不思議に思って目を開けると、扉の前にいたはずのヒューゲルの背中が目の前にあった。
目の前に来ていただけじゃない。小玉のスイカくらいありそうなヒューゲルの拳は吸血鬼の心臓部に突き刺さり、背中まで突き抜けていた。
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